H i s t o r y
幼少期〜高校時代
1989年
東京都練馬区光が丘にて、3人兄弟の末っ子として生まれる。幼少期から目立つことが大好きで、人前に立つことに喜びを感じていた。
1997年
千葉県柏市に引っ越す。
1998年
小学3年生だった当時、とにかく声が大きかったことを評価した小学2年生の時の担任が、「柏ユネスコ少年少女合唱団」を紹介してくれたことが、音楽の世界に入るきっかけとなる。
2000年、演奏会でモーツァルト作曲のオペラ『魔笛』より「私は鳥刺し(Der Vogelfänger bin ich ja)」を披露し、観客から好評を得る。
2001年
もっと歌いたいという思いから、無料で参加できる柏少年少女合唱団と豊四季ジュニア合唱団が合同で活動する「柏市民合唱団」の存在を知り、参加を決める。この時の指揮者は大門康彦先生だった。そして22年後の2023年、柏少年少女合唱団のピアニストである安久津素子先生(後に大門先生の奥様となる)から依頼を受け、大門先生が常任指揮者を務める女声合唱団NAYUTAを指揮し、第76回全日本東京合唱コンクールに出場することとなる。
その後、柏少年少女合唱団に正式に入団し、アメリカ留学をするまでの7年間在籍する。在籍中には、2003年の『サウンド・オブ・ミュージック』でトラップ家長男フリードリヒ役、2005年のミュージカル『くるみ割り人形』でネズミの王様、ピエロ、羊飼い役、2008年の『美女と野獣』でガストン役を演じるなど、数々の舞台経験を積む。
2002年
柏市立柏第二中学校に入学。合唱部がなかったため、吹奏楽部に入部しパーカッションを担当。また、クラス合唱、学年合唱、全校合唱など、ほぼすべての指揮を担当し、音楽活動を広げていく。
2004年
中学3年生の時、紅組応援団長を務め、持ち前の大きな声を活かして活躍するも、声を潰してしまう。
2005年
音楽の授業と吹奏楽でお世話になった大江信夫先生の推薦を受け、合唱部の強豪校である八千代松陰高校に併願推薦で入学。在学中は学生指揮者として数々のステージをこなし、特に2007年に開催された第74回NHK全国学校音楽コンクール地区大会では高嶋みどり作曲の『かみさまへのてがみ』を指揮し、銀賞を受賞。
短大→4年制大学編入
2008年
夏
アメリカ音楽留学を決意し、柏少年少女合唱団のアメリカ演奏旅行を機にそのままアメリカに残り、ノースウエスト・カレッジ音楽学部声楽科準学士課程に入学する。
2009年
春
大学のオペラクラスでギルバート&サリヴァンのオペラ『ペンザンスの海賊』より超早口の難曲「I Am the Very Model of a Modern Major-General」を歌い、好評を得る。
秋
大学教授でピアニストのティム・シェスラーのピアノの音に憧れ、ピアノ科に転科。声楽は副科として継続し、『メサイア』のテノールソロを歌う。
2010年
大学のミュージカルクラスで『Into the Woods』の執事役を演じる。
2011年
春
自身のピアノリサイタルを開催。また、オペラ『The Face on the Barroom Floor』にてMattとLarry役を演じる。
夏
ノースウエスト・カレッジ音楽学部ピアノ科準学士課程を卒業。
秋
北アリゾナ大学音楽学部声楽科へ編入するも、さまざまな困難に直面して心が折れ、ワイオミングに戻る決意をする。
2012年
春
ワイオミング大学音楽学部声楽科学士課程に編入し、恩師であるDr. Lamartineと出会う。
秋
そのDr. Lamartineの提案でアメリカ指揮者連盟(ACDA)主催の合唱指揮コンクール学士部門に参加する。オーディション内容は、ワイオミング大学のトップ合唱団「Collegiate Chorale」を指揮し、その様子を動画に収めてYouTubeに投稿し、そのリンクを提出するという形式だった。受賞は逃したものの、指導してくださったDr. Lamartineから「いつか世界的な指揮者になって私を招待して」と称賛される。この経験を通じて、合唱指揮者になるという思いが一層強まる。
2013年
のちに修士号を取得することになるコロラド州立大学で開催されたサイモン・カリントンのマスタークラスに参加し、好評を得る。
2014年
春
自身の声楽リサイタルを開催。
日本での音楽活動①→大学院修士課程
2014年
ワイオミング大学を卒業(仮)し一区切りをつけて帰国。帰国後すぐに即席合唱団「Cloud 9」を結成し、指揮者として第69回東京都合唱祭、第67回全日本千葉県合唱コンクール、松戸イタリアフェスティバルに参加。
2015年
日本での音楽活動を通じて自身の力不足を痛感し、アメリカで修士号を取得する決意を固め、再び渡米。ワイオミング大学で実は1クラス分不足していたため、卒業できておらず、再度ワイオミング大学に戻ることになる。また、この頃から作曲にも本格的に取り組み始める。
2016年
春
コロラド州立大学、アリゾナ大学、そして後に博士号を取得することになるネブラスカ大学リンカーン校のオーディションを経てコロラド州立大学音楽学部合唱指揮学科修士課程に進路を決める。同年、ワイオミング大学音楽学部声楽科学士課程を正式に卒業。
秋
コロラド州立大学への入学後、数々のコンサートでさまざまな合唱団を指揮する機会を得る。
2017年
夏
コロラド州立大学室内合唱団のドイツ・チェコ演奏旅行に参加し、以下の歴史的教会で指揮を振る。
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リエロス教区教会(ドイツ・ベルリン)
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聖ニコラス教会(ドイツ・ライプツィヒ)
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聖トーマス教会(ドイツ・ライプツィヒ)
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三王教会(ドイツ・ドレスデン)
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聖ニコラス教会(チェコ・プラハ)。
秋
自身の作曲作品でリサイタルを開催。
2018年
春
自身の合唱指揮リサイタルを開催。また、修士課程最後のコンサートでシューベルトのト長調ミサ曲を指揮し、好評を博す。同年、コロラド州立大学歌曲作曲コンテストで第2位を受賞。コロラド州立大学音楽学部合唱指揮学科修士課程を卒業。
モンタナ→カンボジア
2018年
春〜夏
修士号取得後、そのまま博士号に進学する予定だったが、コロラド州立大学のDr. Kimから「どこか、例えば高校などで2〜3年教えてからでないと、博士号を取得した後に就職が難しい」とアドバイスを受け、就職活動を始めることにした。しかし、教員免許を持たない日本人がアメリカの学校で教職を得るのは非常に難しく、このひと夏でおそらく数百もの応募書類を送ったが、なかなか内定を得ることができなかった。面接に進んでも、ビザの問題でほとんどが門前払いされる状況だった。
困り果てた末に、ワイオミング大学時代の恩師であるDr. Lamartineに相談したところ、「モンタナ州では音楽教師が非常に不足している」という情報を教えてもらう。州の求人サイトを確認すると、20〜30件もの音楽教師の募集があった。その中からいくつかの学校に連絡を取ったところ、すぐに返信が来た。モンタナ州では教員免許がなくてもEmergency Teaching Certificate(緊急教員免許状)が発行され、それを利用して教えることが可能だった。残る問題はビザのみであったが、米国の大学卒業後に与えられる1年間の猶予期間であるOptional Practical Trainingを活用することで、専攻科目に関連する職に就くことができると分かる。こうしていくつかの候補の中から、モンタナ州ヴァリエ公立学校への就職を決定する。
秋
ヴァリエ公立学校にて、幼稚園から高校生までの音楽クラスを担当する。クラスの内訳は以下の通り。
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幼稚園:一般音楽
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小学1年生:一般音楽
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小学2年生:一般音楽
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小学3年生:ウクレレ、リコーダー
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小学4年生:ギター、ウクレレ
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小学5年生:器楽(木管、金管楽器、打楽器)
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小学6年生:器楽(木管、金管楽器、打楽器)
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中学1〜2年生:選択制(合唱、吹奏楽、ギター)
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中学3〜高校3年生:選択制(合唱、吹奏楽)
年末にはクリスマスコンサートを開催し、成功を収める。
2019年
春
モンタナ州サンバーストで行われた吹奏楽合同音楽祭にて、6年生の合同合奏を指揮し成功を収める。また、モンタナ州グレート・フォールズで行われた学区音楽祭にヴァリエ公立学校として7年ぶりに参加し、合唱でGrade III(いわゆる銅賞)、合奏でGrade II(いわゆる銀賞)を受賞するという快挙を成し遂げる。学期末にはスプリングコンサートを開催し、成功を収める。しかし、3月に「学校の教師」という肩書だけではビザを取得できないという現実に直面し、急いでノースダコタ州立大学に連絡を取り、アメリカを出る前にオーディションをしてもらう。同時に、世界中のインターナショナルスクールにも応募書類を送る。その結果、カンボジアと中国のインターナショナルスクールから内定を得て、カンボジアで1年間働くことを決意。当時、1年後にはアメリカに戻る予定でいた。
秋
カンボジアでは、自身で考案したモットー「発展途上国に笑顔と音楽を」を掲げ、首都プノンペンにあるインターナショナルスクール、American Global Prep Schoolにて奮闘。モンタナで構築したカリキュラムを基に、幼稚園から高校生までの音楽クラスを教える。12月にはホールを貸し切り、大規模なクリスマスコンサートを赤字を出さずに成功させる。この功績が評価され、学校から感謝状を授与される。
日本での音楽活動②
2020年
春
新型コロナウイルスの状況が早期に悪化することを察知し、いち早く先進国である日本へ避難。そしてその2週間後にはシアーミュージックでヴォーカル、ギター、ウクレレ、作曲講師として働き始める。
秋
柏少年少女合唱団時代の恩師、手塚ナツ子先生の紹介で、アイドルオーディションを目指す生徒を指導。後にその生徒が「iCON〜Dreams For Children〜」で48,000人の中から1位を獲得するという快挙を達成する。また、シアーミュージックが導入した「ブースを2つに分けたレッスン方法」が好評を得て、コロナ禍にも関わらずレッスン数を増やすことに成功。12月には月間235レッスン(45分/レッスン)を行い、約1,000人いるシアーミュージックの講師の中でレッスン数1位を獲得する。その後も約3年間このレッスン数をキープし続け、2022年7月には月間300レッスンを教え、これは現段階でシアーミュージックの記録になっている。在籍約4年半で合計11,143レッスンを担当する。
一方で、コロナ禍の影響によりノースダコタ州立大学との連絡が途絶える。仕方なく、再びノースダコタ州立大学と、ワイオミング大学時代の恩師Dr. Lamartineが当時赴任していたカリフォルニア大学サンタバーバラ校を受験する。しかし、カリフォルニア大学サンタバーバラ校とのオンラインオーディションでは、コロナ禍における州外学生、留学生受け入れ体制の未整備が理由で不合格となる。
2021年
手塚先生から一通の連絡があり、「柏少年少女合唱団の高校生以上の団員を率いて第32回千葉県合唱アンサンブルコンテストに出場してほしい」との依頼を受ける。快諾した上で、アメリカとカナダの大学院博士課程を5校受験する。その中で唯一オンラインオーデションまで進めたのはノートルダム大学だったのだが、最終的には不合格となる。
2022年
春
第32回千葉県合唱アンサンブルコンテストに出場し銅賞を受賞。また、柏少年少女合唱団の(中学生以上)指揮者として本格的に活動を再開する。
秋
柏少年少女合唱団の代表、鮎川真理先生がご懐妊。真理先生がどうしても対応できない部分を補うべく、より密接に柏少年少女合唱団と関わるようになる。同時に、アメリカとカナダの大学院博士課程を8校を受験するが、すべて不合格となる。
2023年
春
柏少年少女合唱団のピアニスト、安久津素子先生から「夫である大門康彦先生が指揮する女声合唱団NAYUTAを指揮してほしい」と依頼される。これを快諾し、第76回全日本東京合唱コンクールに出演する。また、ポニーキャニオンのアイドルグループ「太陽と踊れ、月夜に唄え」のプロデューサーである野島哲平氏から、専属ボイストレーナーとして指導を依頼される。
秋
第18回柏少年少女合唱団定期演奏会を鮎川真理先生と分担して指揮し、成功を収める。また、女声合唱団NAYUTAを指揮して第76回全日本東京合唱コンクールに出場。さらに、「太陽と踊れ、月夜に唄え」の専属ボイストレーナーに正式に就任する。並行して、アメリカの大学院博士課程を11校を受験する。ちなみに、この時点で大学院博士課程に向けて送った願書の総数は27通に達していた。もちろん、翌年も不合格だった場合には再び願書を送るつもりでいた。
2024年
春
2023年度は以下の理由から、例年に比べ競争率がやや低かったと推測される。2020年から2023年にかけて、多くの合唱指揮者がパンデミックによる雇用の不安定さを懸念し、より高い学位を取得するため復学したことにより、これらの年は特に競争が激化していたのではないか。その結果4校の大学、ノースダコタ州立大学、サウスカロライナ大学、ネブラスカ大学リンカーン校、ルイジアナ州立大学からオーディションの誘いを受ける。何校かはオンラインオーディションでもよいと提案されたが、現地に直接向かうことを決意し、レンタカーで5,000kmの大移動を実施。無事、ネブラスカ大学リンカーン校から入学許可を得る。しかし、初年度の助手手当(アシスタントシップ)が支給されない可能性が発覚。当時円安が進行しており、当時のレートで年間600万円、つまり3年間で1,800万円という学費と生活費の目処が立たない状況に陥る。
途方に暮れていたところ、4年間教えた生徒の中に「お金を貸してもいい」と申し出てくれる方が現れる。一週間真剣に考えた末、その申し出を受け入れることを決断し、再々度の渡米を決意する。
大学院博士課程
2024年
秋
ネブラスカ大学リンカーン校への入学後、数々のコンサートでさまざまな合唱団を指揮する機会を得る。
2025年
春
自身の合唱指揮リサイタルを開催予定。